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街角のコラージュ〜 「地球へのバラード」の周辺から

淀川混声合唱団第9回演奏会より

不意に銃声がする
まるで、静まり返った銀色の風景の中に真っ赤な血が飛び散るように…。
あるいは、観念の世界に激しい心情が割り込むように…。
我々は手に取った小鳥や、その痛みや美しさや絶望や息苦しさの中で深いため息をつかなけ ればならないのか?
また、我々を見下ろす乳白色の空の下で、虚勢を張りながら死を待たねばならないのだろうか?…
谷川俊太郎の詩は話し言葉であるにもかかわらず、軽やかに深い。まるで、実存という世界の 街角から様々な風景を切り取っていく写真家のように、我々の生命の呼吸の中から拾い集めた 言葉がコラージュのように世界を埋めていく。
そして、一枚の写真が世界全体よりも広がりをもって感じられることがあるように、言葉は時 として思想よりも深く胸に突き刺さり、物語よりも鮮やかな痕跡を残していくのだ。

さて、昨年に引き続いて谷川俊太郎の詩に関わる曲を選択することになったの は、決して偶然ではないのかもしれない。
谷川俊太郎のこれらの詩において特徴的なのは、言葉が作曲家の手を経る前にすでにある種のリ ズムと音楽とを内包しているという点である。ある意味ではそれは我々の人生のどんな瞬間にも 心臓の鼓動という生命のリズムと情動というメロディーの起伏とが存在しているということを意 味しているのかもしれない。

ずぶ濡れで死んでいく小猫、枯れていくけやき、立ちすくむ子供、うずくまる男、 …谷川が切り取ってきた風景は、地球に存在する生命が日常的に遭遇する風景でありながら、叙事 的な広がりと、ドラマチックな情動を孕んでいる。
言葉で描き出した夏の風景は、少しのにがさと、焦げ付くような夏の匂いと、透明なノスタルジア を充満させている。
幽かな孤独感を抱えて見つめる夕暮れの情景は、やさしくも、ついたため息に少し微笑み返すだけ で静かに暮れていく。
…詩の内容は、日常のレベルから決してかけ離れることがないにも関わらず、生命の躍動と、挫折 と、時間の急流に身を滑り込ませるようなダイナミズムと…、ありふれた形容詞では捉え切れない 繊細な心の震えに満ちているのである。
谷川の詩の中には生命がもがきながら懸命に生きる姿を、(決してヒューマニズムなどという狭い 概念ではなく、また、希望に満ちた未来という安易な概念も同居させずに、)深い慈しみと愛情に あふれた視線で見つめていると言えるのである。そして、まさしくそんな情感に満ちた瞬間こそが 「うた」の生まれる瞬間であり、我々はそんな瞬間を共有するからこそ「うた」をうたっているの ではないか

…三善晃はこの曲についてこう語っている。
「私は願わないことの怠惰を知っているが、また、願いが絶望によって育てられることも知ってい る。その上で何かを願うのならば、それはその願いを育てたものの形質を通り過ぎた歌声によって であろう。」

ベースの出だしのリズムは、脈打つ生命体の血液が循環する音であろうか。 「ゆ・ゆ・ゆ・…」というフレーズは時間をかいくぐる時にかすかに触れ合う透明な肌と滑らかな 時間の波の音であろうか。和音とリズムの緩やかな交錯はもどかしい感情そのものではあるまいか…。 言葉と音に無数のイメージを抱きながら、最終的に我々は、1曲目のタイトル「私が歌うわけ・・」 があんなにも、こんなにもあるんだという事をたっぷり噛み締めてこられたように思う。

この曲の音楽的スケールが、我々のような未熟な合唱団ではなかなか太刀打ち出来 ないほど大きなものであるという課題はともかく、我々にとって大切なのは、耳を当てたら心臓 が動いている…ような音楽を作ろうとすることである と思っている。

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