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練習風景〜練習について、そして心掛けたいこと 
   特集「リハーサル・ビルディング」〜合唱指揮者の仕事としての〜

合唱指揮者と言う立場は定義しづらく非常に「微妙で」であると言える。 そもそも一人で音を鳴らせない以上、指揮者の存在は関係性に依拠するの だが、「合唱指導」の場面でも自己完結的な知識や、音楽的感応力、人柄、 テクニックだけでなく多くの「社会的」とも言える役割が要求されるよう に思う。例えば「リハーサル・ビルディング」においても合唱指揮者に要 求されるものは「段取り」とか「感性を言語化する能力」とでも言うべき ではないだろうか。

複合芸術である「合唱」において、それらを概念別に把握し分けることや、 複雑に見える楽曲からシンプルな構造を見抜き、基本パターンに着目する ことは何より大切である。どこを「反復」し、どこに「テクニック習得」 が必要か、あるいはどの部分にパート固有の練習が必要か・・・・、指揮者 は楽曲を分析し、対策を練って段取りよく音楽を構築していくことが必要 であろう。

最近、大学合唱団の練習を見て学生指揮者にアドバイスする機会が多いの だが、資質よりも練習の進め方に目がいき、選曲や音楽の分析に立ち戻って、 それに対応した基本練習のパターンとその段取りについてアドバイスする ことが有効であるように感じる。
もちろんそこには正しい雛形が存在するというものではないし、合唱団の レベルや目標によってさまざまな行程があってしかるべきである。自分自 身の合唱団でも練習内容は集まる顔ぶれによって常に変更する。段取りや スケジュールが重要と思うのは、計画的にことを進めよということではな く、感性にいたるまで「全体を俯瞰するポジション」を常に意識すべきと いうことなのかもしれない。

もう一つの能力として必要だと痛感するのは「言葉」であろうか。しかも 「具体的な言葉」と「抽象的な言葉」の使い分けであると考える。我々の あらゆる知的な営みは少なからず共有する言語の文脈に依存しているわけ だが、合唱が文化的活動である限り、我々は主として言語を媒介としたコ ミュニケーションによって人に指示をし、音を修正し、音楽を構築してい くのである。
例えば雰囲気的な言葉や抽象的な言葉しか使えないと壁は意外と早く来る。 また、同じ言葉でも論理的に積み上げ、纏めた概念を構築していかないと 本質は変えられない。「大きすぎる」とか「低い、高い」という言葉での 場当たり的な指摘では発展がなく、和音構成や詩のリズム、音楽の様式な どについての論理性を加えないと、音楽のイニシアチブが合唱団側に回ら ずつまらない。
しかしながら、知識と準備に基づく具体的な指示もやがて行き詰まる。何 故なら、あらゆる芸術は抽象的なイメージの具現化であったり、個性や人 間性そのもであったりするからだ。ましてやモチベーションという部分を くすぐるのは決して論理ではないのだ。つまり、最終的にはどのように言 葉を使い分け、団員のイメージを喚起させ、音楽を誘導するか・・・・・・、と いうことが練習の中身そのものだともいえるのだろう。

さて、それにしてもである。ふと考える。・・・・・・いったい我々は「何のた めに練習している」のだろうか・・・・・・? そう考えたとき、ふと「合唱」 とは別の思い出が蘇ってくる。子供の頃に父と歩いた山の表情である。幼 い頃からよく父に連れられて近くの山を登ったのだが、一緒に歩いている と父はすぐに横道にそれて山菜やきのこを採って帰ってくる。よく立ち止 まったり回り道をしては樹木や珍しい花の名前まで教えてくれたり、それ に触れさせてくれたりした。山道を登りながら必ず春の香りや秋の実りを 実感させてくれたものだった。

山を登るという行為を考えたとき、もちろん標高の高い山のピークを制覇 し見晴らしの良い風景を目にすることや、厳しい環境を耐え抜いて仲間と 達成感を分かち合うことは非常に重要であろう。練習に置き換えると演奏 会やコンクールといった発表の場に向けて緻密に計画を進めていくことが 指揮者に与えられた役割であろうし、私はそこに「忍耐力」「注意深さ」 「徹底」という三つの要素を加えれば本番成功への比率は単純に高まると 考えている。
しかしながら、ピークを制覇するだけが山の楽しみではないのと同様、楽 しみ方の多様さを伝えること、プロセスの中でより多くの発見をし合うこ とも大事なのではないだろうか? 鳥の声を聞くこと、木の芽を食べてみ ること、咲き初めの花の匂いを嗅ぐこと・・・・・・、山にもたくさんの表情が あるように音楽にもたくさんの表情がある。五感を十分に働かせて新しい 発見へと「ガイダンスする」こと、音楽の恵みを共に感受することも忘れ てはならない。
どんなレベル、どんな工程であれ、常に音楽そのものの魅力を実感し、練 習自体に意味がある「驚きと発見に満ち溢れた」練習が出来れば・・・とよく 思うのである。

2004年『合唱表現9号』より
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