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松下耕作品について
Minimal for Male Voices =2005= 今や複数の巨大な山脈を持つ松下耕作品群の中から1・2曲を選び出す ことは非常に難しいように思います。民俗音楽と向き合いその本質を全 く損なうことなく現代的なテイストの中に再創造された作品群や、 「エチュード」という名のもとに統一され「啓蒙的使命」と「品性ある 遊び心」の両方を兼ね備えた作品群は日本合唱界の財産として輝きを放 ち続けるのではないでしょうか?しかしながら、今回私は日本語ではな い言語による作曲活動に目を向けてみました。 歌・合唱というものが言語を伴う芸術であることにより、作曲家がどの 言語を選択するのか、もしくはどの詩や言葉に曲を付けるのか…、とい うことは非常に重要な観点であると思います。合唱曲というものを俯瞰 した時には、当然ながら言語学的(イントネーション、アクセント、母 音の音色)アプローチやテキストの内容(言葉を通して何かを伝える活 動である)というものが不可分の要素として横たわっていますし、言語 そのものが人間の文化的基盤として根を張っていることにより、歌が人 間の生き方と深く関与していることを理解出来ます。
しかしながら、このことは全く逆の観点から考えると、テキストへの依
存、言語(もしくは言語的メッセージ)への依存、という持って生まれ
た宿命によって「歌」が「文化的身振りへ従属すること」を余儀なくさ
れているということにも気づかせてくれます。(日本人が他国の管弦楽
曲を演奏するより歌曲を歌うことの一般的障壁の高さ…とでも言うべき
でしょうか)つまり、言語を伴う芸術のほうがよりその文化的コードへ
の依存度が高く、前提になる言語コミュニティ内での理解や身振りの共
有というものが必要になる可能性があります。
さて、前置きが長くなりました。上記の曲は日本語の詩の英訳に対して
音楽を付けることで、日常的身振りでない(つまり慣れから磨耗するこ
とのない)言語の持つときめき感、官能性のようなもの…、あるいは
「ずれ」や小さな語感の「差異」から生じる表現の幅が、言語と音楽の
スリリングでユーモラスな関係を感じさせるように思います。曲は我々
の文化圏ではなかなか表現し得ない要素が短いパッセージの中に混在し
ますし、日本語のテキストからは決して生まれないリズムとサウンドに
溢れています。 例えば、日本の合唱団の一般的姿勢というのはひょっとすると学校教育 の延長線上とも言える規律的集団行動を基礎にした管理的側面が色濃い のではないでしょうか。集合時間に集まって指導者の注意をよく守り、 意思統一していく…。もちろん、そうやって一体感や合唱特有のテクニ ックを磨いていく訳ですが、この曲と向き合っているとそういった文化的 身振りとは別の集合形態(Come on Join us…)で歌われるイメージが沸 き起こって来ました。歌詞の解釈を含めて、「君はどう考える?」 「僕はこう考える!」という無言のやりとりが反復されているように感 じられるのです。言わば(「授業中は静かに」から「Have your own opinion」とでもいう…)集団に対する文化的コードの転換が、言語的ト ランスレーションに紛れ込んで忍んでいるようにも思うのです。仮に意 味内容が一緒だとしても、「宇宙観・世界観」あるいは言語の表象に対 する身振りや心拍数の違いに意識せざるを得ないとでも言うのでしょうか。 単に「英語だから発音に気をつけよう!」に留まらない「言語と音楽」の 合体と乖離に対してイマジネーションを働かせたいところです。 この曲を演奏するときには、まず「耳」を使って人の息遣いを聞き取り、 それにレスポンスをする要領で自分の「声」を反応させる。そうやって 生まれたセッションの喜びを「顔」で表すことによってどんどん客席を 巻き込んでいく…。しかも思索的な内容であることを「軽やかに」扱って いることからくる「奥行き」を味わいながら…。少なくとも「一種のスポ 根的克己心と反復刷り込みによる大人数の一体感」とは別次元の感性を導 入しないと面白さが出ません。そういう意味では、このような曲がやや保 守的な様相のある日本の男声合唱のジャンルに誕生したことは、日本の合 唱界の大きなターニングポイントや問い掛けを意味しているのかもしれな いと考えているのです。 2007年『合唱表現20号』より
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