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『中勘助の詩から』 多田武彦  〜言葉と永遠のかけら〜 

私が男声合唱団の「なにわコラリアーズ」を創設したのは93年のことでしたが、 ともすれば画一的で工夫のないように見えた男声合唱界を活性化させようと、 その頃まだあまり歌われなかった北欧の曲(『オルフェイドレンガー』『ヘル シンキ大学合唱団』のレパートリーを順番に・・・)や世界各地の珍しい作品を探 し出しては歌ってきたものです。インターネットの普及で外国楽譜が手に入りや すくなったことも背景にはありましたが、当時としては画期的なプログラムビル ディングにチャレンジしたり、あまり開拓されていなかった海外の現代曲を中心 に取り組んで来ました。その過程は、この10年のコンクール全国大会の選曲等 から見ていただけていた方もあったかと思います。しかし、それと平行しながら この間に我々が2枚の多田作品のCDをリリースしていること、演奏会で4度も 多田作品を取り上げていること、そしてついにこの1月には「オール多田武彦作品」 の演奏会を企画していることはあまりご存知ないかも知れません。もちろん、 多田作品が決して歌われなくなっている訳ではないものの、かつては山ほどあった 大学男声合唱団のプログラムにすっかり多田作品が見られなくなっていること (男声合唱団自体が減少)、多田作品を一定年齢以上のノスタルジーの対象に押 し込めてはならないと思ったことが、この「ただたけだけコンサートvol1」 企画背景にあったとも言えるのです。

さて、今回私自身が取り上げる曲は、私にとっては個人的にも特に思い出深い 「中勘助の詩から」という初期の作品です。私が合唱を始めた瞬間から「この 曲を指揮したい」と願い、学生時代の自分の感受性と言葉を総動員して練習し た曲でもあります。

銀の匙 中勘助は決してメジャーな詩人ではありませんが、その生い立ちは実は高校 時代からの私の一番の愛読書「銀の匙」に詳しくあります。・・・引き出しの中 の珍しい形の銀の小匙の思い出から始まる(マルセル・プルーストにおける プティ・マドレーヌか!)叙情的な随筆ですが、彼はこの完璧な随筆で夏目 漱石を唸らせながらも、文壇にも登場しなければ、世間に名を成すことも願 いませんでした。むしろ人込みや喧騒の社会を嫌い、作家や詩人というより も詩的な独自の生活を愛していたように思われます。特に幼い日々の思い出 を綴った言葉や詩の数々は、センチメンタリズムという言葉では片付けられ ない独創性と比類のない美しさを誇り、まるで、現実が研ぎ澄まされて幻想 になったというような陶酔の瞬間を漂わせるのです。友禅縮緬の美しい一片 で縫われた女の子のお手玉の描写・・・そのお手玉を取り合って睦みあう小さな 恋人たちを見詰める視線などはこのうえなく繊細ですが、世界は勘助の眼差 しによって風景になり、風景は彼の眼差しによって夢や幻想になっているよ うです。

多田作品の魅力は、まず、そういった詩人や詩の選び方、「これしかない」 という「詩の選択眼」とも言うべきものから成立しているのではないでしょ うか。まるで、あたかも詩の中に内在していたとしか思えない歌や音楽を見 抜き、それに忠実にメロディーとハーモニーを紡いでいるようにも思えます。 例えば、私が意識して取り上げてきた「雪と花火」「東京景物詩」「三崎の うた」(→CD販売予定)・・・の一連の白秋のテキストに作曲された作品には、 詩の源に存在する白秋の官能性や背徳感、逃避的傾向、浪漫的傾向がフォル ムを崩さない様式の中に表現されており、多田芸術の真骨頂とさえ思えます が、他方で中勘助の持つこのような典雅な気品と匂い立つリリシズムについ ても、所謂、大作や力作という類の構築性や深奥性ということではなく、粋 で洒脱な映像的流れの中に表現されているように思えます。7曲の組曲は長 短のよどみないショットを積み重ね、日常的な身振りの中に哀歓を超えた 「忘れられない瞬間」を見つけ出しながら終曲に向かいます。終曲の「追羽 根」が始まると会場は匂うばかりの幸福感に包まれることでしょう。

・・・しかしながら、考えてみれば、このような細やかな感性と美意識こそが、 合理性や効率性を優先してきた現代的な生活の中で最も先に失われていこう としているものであるようにも思います。私は、近年の声を出して遊ばない (歌を歌わない)子ども事情に危機感を感じ「わらべうたや遊び歌を教え、 歌うための児童合唱団」を立ち上げましたが、中勘助的、多田武彦的叙情世 界を歌い継ぐ意味とは、合唱という枠を大きく超えて、言葉が表現できる感 情の機微や表情を再確認すること、もしくは我々の生活や人生の折々に保持 してきていた気高い美意識に気付くこと、・・・つまり我々が我々自身の感受 性を守り継ぐことに繋がるのだと思うのです。現代的風景とはかけ離れてい ても「ふるさと」「赤とんぼ」を歌い継ぎたいように、例え追羽根を追わな いお正月になったとしても、新年の春風の匂いと寒さの中に夢追う乙女の情 感に思いを馳せながら「言葉に内在する歌」を歌っていくこと(リリシズム、 日常生活の中での細やかで愛情に満ちた美意識)が必要だと思いたいのです。

いよいよこの1月には学生時代から20年ぶりに「中勘助の詩から」の指揮 をすることになります。歌い手と聞き手の間に中勘助の世界と多田音楽の 持つ柔らかい感性が行き交い、豊かな季節感が満ちればと思っています。

2009年『ハーモニー 冬号』より
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