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「水のいのち」〜歌声の周辺から〜

同志社グリークラブ第93回演奏会より

やさしく降り頻る葡萄色の雨・・。
永遠の時間が風景と匂いと雨粒の宝石のような輝きの中に混在しているかのような 情景。
世界の全てに…草や木や土や岩、庭にも建物にも、敵にも味方にも…、 そして「死者」にも「生者」にも等しく降り注ぐ雨。濡れそぼった情景…。
音はみな、雨の情景の中に消え、世界は始源と終末の交錯したひたすらに美しいため らいの中にある…。

「水のいのち」はそんな美しい雨の情景から始まる。
空から地上に降り注いだ「雨水」が乾いた世界を潤し、蘇生させ、池を作り、川を作 り、海へ流れ、そしてあらゆる植物や動物の生命を育み、再び空へと昇華されていく…。 昇華された水は再び雨となって世界にやさしく降り注ぐ…。世界全体の営みを象徴し たようなこの「水の輪廻」からは壮大な時間的、空間的なスケールと、それ以上に、 人間を始め「あらゆる生命を司る水」としての荘厳さが溢れ出ている。

ただ、これは水の一生を描いた物語というよりは、主題はあくまでも「水の魂」と も言えるべきものであろう。水の魂とは決して物質としての水のことでも、その低い ほうへ流れて行く性質のことでもなく、反対に「空をうつそう」とするものであったり、 「山や空の高みに焦がれる」気持ちであったりするのである。高田三郎はその魂のこと を「それがあれば生きていけるが、それを失うと死んでしまうもの」と定義しているが、 明らかにこの主題が流転し変容していく人間の生命から漲る「あこがれの気持ち」にも 似たものであることが直感出来る。
例えば組曲の最後の部分では「みえないつばさ いちずなつばさ あるかぎり、 のぼれ、 のぼりゆけ…」と歌うことになるが、この部分はある意味では組曲全体の主題の集約で もある。それは蒸発という自然現象を単に描写している訳でも、その営みを大自然の姿 として描いているだけでもない。そこには確実に我々の心に生命の原動力として存在し ている一つの「思い」があるはずなのだ。つまり、この「いのち」という言葉には物理 的、科学的な、あるいは区切られた生の時間という意味でも、ただ流れていくだけの人 生という意味でもなく、「空へ上ろう」…生命を憧れに向けて燃焼させよう…とする、 能動的な「思い」が働いているはずなのである。美しい情景描写の奥にそれを見逃した くはない。
水の魂は悩み、考え、問い掛けたあげく、海に向かって流されていく。そして、そこで 大いなる神聖によって抱かれ、癒され、清められる。大いなる神聖は長い年月を経て「 満ち足りた死」を打ち上げる。その海辺の光景こそが眩いばかりの光に満ちた印象的な 瞬間である。珊瑚やヒトデや貝殻を放り出した海辺の光景…。そして、そのきらめくよ うな静寂の光景を見守るのは、「海に番った太陽」であるのかも知れない。
「やっと見つけた永遠の瞬間」
海に番った太陽に励まされるようにして、その事をしっかりと確認しながら、水の魂たち はやがて、静かに翼を広げ始めるのである。

この曲は1964年の初演以来、混声合唱の屈指の名曲として多くの団体に歌い継が れてきている。(福永陽一郎指揮のあのベストセラーレコードのことについては、陽ちゃ ん先生から何度もお話を伺った思い出がある・・)
そして、男声合唱版は、同志社グリークラブOBであるクローバークラブの委嘱(1972 年初演 日下部吉彦指揮)によるものである。
それぞれのパートの性格を掴みきった音遣いによる美しいハーモニー。日本語の柔らかな 語感。音の裏付けたる強いメッセージ。合唱の原点ともいえるこの曲の魅力やその楽しみ 方については、夏合宿以来、学生たちと一緒に確認してきた。風格ある演奏とは言わない…、 ぎこちなくも溢れるメッセージがあれば…。爽やかに、あるいはもどかしさをぶつけなが らも懸命に歌うことが出来れば・・、と思っている。

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