永遠の果て、懐かしい故郷に導かれて
「もうひとつのかお」の周辺をめぐる雑感ノート
淀川混声合唱団代第13回演奏会より
「見つめること」によって愛が始まるとしたら、見つめる者と見つめられる者がいること
になる。「呼びかけること」によって愛が動き出すとしたら、呼びかける者と呼びかけられ
る者がいることになる。「触れ合うこと」によって愛が確認し合えるとしたら、もちろん間
違いなく…。愛は自己完結しない。人間が一人で生きていけないことと同じくらいの必然性
で、愛は関係性の中において存在する…。そしてそれが全てだ…。
そう言えば学生の頃、世界の仕組みを知りたくていろんな本を読み漁ったあげくついに一冊
の本に行き当たった。私が社会哲学のフィールドで見出したのは、デリダでもドゥールーズでも
なくロランバルトだった。構造分析からロマネスクへ、理念的な哲学から実生活へ、記号論から
エッセイへと旅した果てに辿り着いたバルトの遺著には、私が探していた問いに対する答えが溢
れているように思えた。拡散していった知性は、まるでクレーの天使や、カポーティの小説のラ
ストシーンのように、それと同じような求心力をもって「母親への思慕」に向かっているように
思えた。人間や世界の理屈について思考したフランスの哲学者の見出したものは「満ち溢れるよ
うな愛」だったのかも知れない
おまえが愛するとき、草も木もおまえの味方だ。
だが、おまえが愛するとき、誰もおまえを助けない。
そう歌われた谷川俊太郎の「愛」に対するまなざしは厳しくもあたたかい。それは決して
ヒューマニズムとして位置づけられるものではなく、人の気持ちや世界の始源的な風景と構造を
見抜きシンプルに彫琢しているように見える。「詩」は何のために存在し「うた」は何のために
存在するのか、そう考えた時、このフレーズに始まる4曲目の「愛」の持つエネルギーは、人間
の知性や情感が「他者に対して」流れていくこという当然の構造を意識させることで、人間の存
在理由とその普遍性を示してみせているかのようだ…。
さて、「もうひとつのかお」は言葉と音楽の拮抗した対峙力と構成力ゆえ、後世まで等しい
影響力と魅力を放ち、多くの人から愛される作品になるのではないかと思う。
ドライで表面的で少しもどかしい男女の繋がりや、憧れにも似た感情を<拡散和声>と
<暖かい調性>で対比的に描いた1・2曲目(「接吻の時」「あなた」)に対して3曲目「もうひ
とつのかお」では螺旋階段のような<旋法>を用いて人間という普遍的な存在の内側を抉り出していく。
まるで「鏡」を使ったエロディアード(マラルメの象徴詩)さながら、多義的でデモニッシュな微笑み
の力を借りながら内省的に人間存在の奥底まで掘り下げ、普遍的なアニマ(女性性)を炙り出していく…。
そして4曲目は、その恐ろしさゆえ?思わず目を伏せてしまった後に用意された究極の「愛」に纏わる歌
である。ここでは「愛すること」は「生きること」そのものである…という非常に重要なメッセージを軸に
音楽はそれまでの3曲を全て包括する懐の深さをみせる。「愛」こそが人生の意味であり、愛するという
能動的なエネルギーによってのみ世界も生命も動き始める。…まるで「ファウスト」のラストシーンのよう
に「永遠のアニマ」に導かれながら、音楽は外へ開かれると同時に人間の存在そのものの意義を我々に示し
てくれるのだ…。
…人が一人で生きられないのと同様に、合唱は一人では出来ない。
二人以上の声が合わさって初めてハーモニーは奏でられるのと同様に、人は他者との関係性の中で始めて
「生きる」ことを実感するのではないか。人は言葉や音楽によって癒され言葉や音楽は人を励ますために
存在するのではないか。…
曲は終盤に向かうにしたがって何度も「おまえは」「おまえは」と繰り返す。
人は人を励ますために声をかける…。しかし、励ましているうちに高揚し、こちらが励まされてしまうと
いう経験はないだろうか。ここにコミュニケーションの始源としての愛が生きているのではないか。自己
から他者へ、他者から自己へ…この見えない情感の流れこそ「愛」であり「言葉」であり「うた」であり、
「生きる」ことの意味である。歌=愛=生きることは同義であるに違いない…この曲は拙いながらも「全
力で」ぶつかっていくことによって、そのことを改めて教えてくれるようにも思うのだ。
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